東京都杉並区の久我山神社に粛粲寶の絵や絵馬が奉納されています!
粛粲寶は戦後間もなくの頃より平成元年までの40年程、杉並区の久我山に住んでいました。
平成元年に中山青空子様の住まう茨城県猿島郡境町に転居し、ここで生涯を閉じます。
長年住まわれた久我山を去るに当たって、地元の鎮守様である久我山稲荷神社に何か記念になるものを奉納したいと考えられたそうです。
十二支の絵馬(12枚)と、久我山稲荷神社のシンボルとも云えるキツネの絵を描いて、お納めしたそうです。(境内にキツネの石像があります)
この和紙に墨で描かれたものはシルクスクリーンのよる印刷物です。
奉納に際してご尽力を戴いた方々に、このような絵を奉納しましたという印に作成したもので、10部程度しか存在しないものなのだそうです。
今回、この絵の消息を久我山稲荷神社の宮司様に確認をさせて戴きました。
すると、彩色画でまわりを金箔で額装した絵の写真を送って戴きました。
また、十二支の絵馬は社務所に行くと飾ってあるとのことでした。
至心帰依意成尊
寿命転増除罪障
東都杉並久我山稚児意成尊像
奉納した彩色画の方には、東都・・・の右に
八十六叟粛散人■筆
と、あります。(■は「堂」か「覚」かと思われます)
かぞえ86歳の時の絵ということになります。
よそ様の所蔵品なので、ここにアップは致しませんが、
稚児意成尊の髪は青、上着は白、袴は黄色。抱えた宝珠は赤。キツネは青。
本画には遊印が2つ。落款が2つ。
久我山にも行って来ないとなぁ・・・
中学生の時、級友が硬式テニスの大会に出るからと応援に2週連続で日曜日に降り立った駅が久我山でした。渋谷から井の頭線に乗って行った覚えがあります。久我山は、落ち着いた山の手の住宅街であったように記憶しております。勿論その時に粛粲寶は住まわれていた訳ですので、幽かな記憶でも私がその当時の町並みの様子を覚えていると云うのは貴重なことだと感じています。
中山青空子様、貴重な資料を有難うございました。