粛粲寶の越後獅子の手拭いと旧月潟村のマンホール
手拭いの柄は「えちごじし」です。
絵柄を見て、「あ、角兵衛獅子だっ!」とわかりました。
月潟村付近を車で走ると、田んぼの真ん中にタワー状のサイロが1棟忽然と建っています。その壁面にこの角兵衛獅子が描かれているので知っていました。
粛粲寶はやはり新潟出身ですから、郷土の知り合いを通じて、このような伝統芸能の手拭いの絵柄等をお願いされ、また引き受けもしたのでしょうね。
越後獅子、若しくは角兵衛獅子とは、新潟市南区(旧西蒲原郡月潟村)を発祥とする郷土芸能のことで、神原獅子とも呼ばれるそうです。
越後獅子は、児童が演じる獅子舞で、縞模様のもんぺとしころ(兜の鉢の左右から後方に垂れて顎を覆うもの)の付いた獅子頭を頭上に頂く格好で演じます。また、獅子舞、笛吹き、太鼓で構成されています。
歴史的には色々な説がありますが、中之口川の洪水に悩まされた月潟村の人々が堤の費用捻出の為に子供たちに越後の獅子踊りをさせて旅稼ぎをしたのが始まりといわれています。
越後獅子が江戸に行ったのは江戸時代と言われており、大道芸としては明治時代には衰退していったようで、義務教育の定着により、親方が児童に対して鞭を用いた体罰で芸を仕込むことや学校に通わせなかったことに対する嫌悪感が生まれ、次第に忌避の対象となったことも影響したそうです。また、児童の体を柔らかくする為にお酢を飲ませたり、こん棒や分銅を使っての稽古などがあり、残酷であると警視庁から新たな子供を加えてはいけないという禁止令が出ました。昭和8年には児童虐待禁止法によって、児童を使った金銭目的の大道芸そのものが禁止となってしまいました。
しかし新潟電鉄の設立者奥山亀蔵によって、大人が演じるお座敷芸として復活を遂げ、昭和30年代以降には、郷土芸能として復活させようとの機運が次第に高まり、現在では地元の夏祭りである「月潟まつり(角兵衛地蔵尊祭)」で地元中学生らによって演じられています。平成25年、新潟市の無形民俗文化財に指定されました。
若しかしたら、粛粲寶も越後獅子の舞を観に月潟を訪れたのかも知れません。
因みに旧月潟村のマンホールの絵柄も越後獅子なんですよ!!上の方に描かれているものは、梨の木ですね。月潟は梨の産地ですから。
写真は新潟市合併後に設置されたマンホールのようで、「にいがたし市」表示ですが。
実は私はマンホールコレクターなのでありまする(笑)
更に手拭いも結構コレクションしていたのであります。
中山青空子様、貴重な資料を提供して下さり有難うございました。